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21歳。大学に受かり、明るい明日を目指すも根本的根暗。 そいつがひねり出す言葉のそれぞれ。自分の過去ログ的な。

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 やっとこさ「フェイスブック」を読み終わりました。分厚いですねぇこの本。それでも500Pくらいしか無いのですが。
読み終わって、少し考えたことがあるので、脳内で熟成させないでのブログを書かせてください。
寝かせてないので中身は希薄かもしれませんが、お付き合いをば。

まず、この本は明確に分かれているわけではないが、主観的に前後編で分かれることができるように思う。
前編では、マーク・ザッカーバーグがどのように、誰と、まぁ起業してって話です。
後編は、ビジネスとして、会社としてのfacebookはどういうものになっていくかというおはなし。

読みやすくて、尚且つフェイスブックの全貌が大まかに分かる本でした。

前編で思ったこと:まず、ザッカーバーグがハーバード大に属していたということもあり、スタートアップ時、
同僚に非常に恵まれていたということ。同僚のポテンシャルはさすがに高い。
そして、ショーンパーカーという男の存在。この人なしには、facebookのあれほどの成長はありえていないと思う。
ショーンがでてきましたが、前編通して、巡り合わせというか、運がすごい。先日のエントリは、割と
この本に影響を受けていて、ザッカーバーグ自身、天賦の才がすごい。しかしながら、
運がいいと思えるような巡り合わせが多い。これはすごいとこにはすごい人が集まるという法則なのかとも
考える。

後編で思ったこと:ザッカーバーグはともかく揺らがない。「ダイヤモンドは砕けない」ってくらいに
ものすごい信念。頑固と言ってもいい。
そしてここで思ったのは、リヴァイアサンになるには、やはり利他的でなくてはならないということ。

facebookへの金額はトラフィックが大きくなるのに比例して増えていく。ヤフー、マイクロソフト、グーグル、
シリコンバレーのベンチャーキャピタル、数々の投資家やら、起業がfacebookの所有を欲する中、
ザッカーバーグは揺らがない。いくら金を積まれても、動かない。
そこには、ザッカーバーグの野望とも思える強い信念があったからだ。
彼は終始、「ネットの透明化、オープン化」、そしてあくまでも「ユーザの使いやすさ」を追求していた。
普通の人ならば150億ドル積まれたら揺らぐ。しかしながらザッカーバーグは動じない。
「自分が所有者でなければ、売るつもりは毛頭ない。」という態度を最後まで貫く。
ある種、独占欲が強いように思われるが、彼の頭の中にあるビジョンを実現化させるためには、
誰かに手渡すなんていうことは、少しも思わなかったのだろう。

まぁとにかくすごいっすよマーク・ザッカーバーグさんは。周りの人も優秀です。ばかみたいに優秀です。
業界のトップですよ。でも、そのなかでも物怖じしないで道無き道を進む彼はすごかった。
もともとそういう世界にいるならわかる。しかし、ちょっとしたSNSを作った人が、
未開の地へ足を踏み入れ、前後不覚の中、金を積まれても動じないというのはすごいなぁと素直に思った。



でまぁここからはfacebookそのものについてちょっと話したい。
もともと、ハーバード限定のクローズドなSNSであって、今でもあまり変わらないが、実名主義で、
当初は性的に傾いていて、まぁ、アメリカもこっちも20前後のやつは僕も含め脳内がピンクなのかなとも
思うのですが、とにかくそういう特質があった。

こっから、色々とfacebookを対立させて話を進めます。
先に行ったとおり、facebookは実名主義で、偽名や、キャラクターなどは徹底的に排除された。(後にマイスペースへ流れこむ。)
それゆえに、今でいうニュースフィードや、写真のアップロード、ひとつの意見でもアイデンティティー足りえる。
そして、今ではどうかはわからないが、facebookはいわゆる「リア友」とフレンドになるのが一般的だ。
一方日本で人気のSNS、mixiは匿名が大半を占め、今では多機能化したが、やはり依然として、
日記のようなものが多くを占める気がする。しかしながら、facebookとは違い、
「リア友」でなくても普通に「マイミク」として登録することが、できるような気がする。

この二者の違いは、文化的なものなのであろうか。
当然、アメリカでも実名なので、プライバシーの問題はあるし、実世界での被害も懸念されるが、
それでもなお、実名主義。そして人々は其れを受け入れ、facebookを享受している。
しかし日本では、相変わらず匿名主義が多く、facebookにおいても、偽名を使っている人は多い。
そしてmixiなどでは、おそらくほとんど全員と言っていいほど匿名でのアカウントを所有している。
匿名でも、リアルの友達であれば、配信される情報は何となく分かるが、
匿名で、なおかつなんの接点もない人がその情報をみたとき、割と首をかしげたり、そもそも、
関心の度合いがものすごく低かったりするとおもう。
それであるのに、匿名がここまではびこり続ける理由はなんなのだろうか。
たしかに、名前を晒さないことによって、実害を回避できるという安心感はある。

次はfacebookとTwitterの対比に移る。
今ではfacebookにニュースフィードという機能があるが、これはTwitterに驚異を感じたために
実装された機能のようだ。
Twitterにおいても、匿名主義が未だ多くを占めている気がする。
著名人はたいてい実名で登録しているが、一般的個人は日本らしい匿名だ。
僕はといえば、facebookもTwitterも実名登録している。
女性がこれをやるとたしかに身の危険があるかもしれないが、自分は、匿名でいることに
なにか違和感を感じて実名でアカウントを所持している。
どちらがいい悪いではないが、この実名と匿名の明らかな存在比率に疑問を感じざるをえないのだ。
おおまかに文化的な差異が原因なのだろうとは思うのだが。

ツイッターというのは、フォローボタン一つで、その人の考えを追えるというもので、
ロックしていない限り承認を必要としない。それゆえに、フォロー・フォロワー数はかなりの勢いで増える。
(増やしたいと思えば。)此の気軽さは、Twitterの利点であろう。
しかしながら、facebookでは、友達になるために承認を得なくてはいけない。
つまり、知り合いではない人に承認要求をしても、その人が拒否すれば、その繋がりは出来上がることはないのだ。実名ではあるが、リア友主義であるfacebookにて、僕はあまり友達を多く作れていない。
もともと、海外の人と話がしたくて始めたのだが、要求をしても返事が返ってこないことがいくつかあった。
(これは単に、僕の英語の力が足りていないからかもしれない。)

何が言いたいかというと、この実名or匿名の差は何かってことと、
友達になりたいけど、あまり広げられないけどなにこれ?っていうすごい悲しい話なんです。はい。
これは一体なんなんだろうか。ただ、実名だからこそ、迂闊に知らない人に声をかけづらいという感じはある。
それがまた、プライバシーを保護するシステムにもなっているのだろうか。
mixiの匿名性は声をかけやすくする、facebookの実名制は声をかけにくくする。
そのあとの関係性は全然わからんのですが。

このSNSの違いを誰かと話し合いたい。

そんなとこで、まとまってないですけど、今日は終わります。

追伸 でもfacebookみたいなSNSがザッカーバーグのいうようなインフラになったら、
メールとかほんとに要らなくなっちゃうよな。アメリカではメールよりfacebookで過す
時間のほうが増えてるみたいだし。情報の個別化も大事だけど、統一化のほうが利便性は増すよね。


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 なんだか余震が無限に断続的に続くんじゃないかって気がした今日の僕です。
心をふーっとするためにも、ブログを書くでげす。

心の整理とか、自分の肩の荷とかがうあぁってなったときの文の作成はやっぱり必要なんじゃないかって思うのです。それを人に見てもらえるってのがまたたのしいんじゃないかなぁなんて、チュウハイでぼやけた頭は
思うわけで。

さて、本題ですが、「思考の整理学」という本がありましてですね。
半ばまで来たあたりで、しばらく、受験期ふくんでたんで、実質一年くらいあいだあいてたんですかね。
受験終わってからちょこっとよんで、半分までのところで止まってしまった。今日まで一月くらいたちましたかね。

進まない理由はよくわかりません。文体が難しいとか、今の自分には必要無さそうとか勝手に思ってるとか、
違うものに興味が移ってるとか。

そもそも読書にハマるときは読書に時間を割くのですが、割かないときは割かない。
主にギターとかPCばっかやってる。(まぁPCはやってるのですが。)
で、しばらく間が開いて、ふと手にとってみるとサクーっと進む。
もう「プライベート・ライアン」ラスト近くの白兵戦で、敵方のナイフが腹部にじっくり喰い込むように進む。

しかも、面白いんですよ。サクっと進むってことは、面白みがあって進んでいるということ。
逆に、止まってしまう時、そのような爽快感はない。むしろ、読むのに若干の辟易をしてしまっている状態。

この期間に何の変化があるのか。ただ単に時間の経過で読めるようになったというのではなく、
その期間の読書が、僕に何らかの影響やら知識を与えて、次の読書を円滑に進めているような。
僕は一冊をかって、終わるまでじっくりという読書ではなく、欲しい本をとりあえず机の上に重ねといて、
読むのに詰まったら他の、他の、と、どんどんローテーションしていく本の読み方をしているのです。
ですから、止まって、次の本を読んで、その本がなにか影響を与えてくれてるのかなぁなんて。

「思考の整理学」についてですが、かなり面白かったです。セレンディピティという言葉もここでならいましたし、
僕の考え方にまた新しい方法を付け加えてくれるような。
今日読んだところには、人との会話の重要性が語られていましたが、僕も最近それを感じているところで。
著者は、自分の所属だとか、専門に関係の無い人との会話のほうがセレンディピティやらヒラメキを
与えると言っていましたが、これもたしかに。と思えるところで。

中学時代は市立だったんでまぁ不良から秀才なんでもござれだったのですが、
高校は私立で、まぁ自称進学校とか、なんちゃって進学校だったのですが、
それでも僕の友人はそこそこ名のあるところに行って、頑張っているみたいでした。

僕の受験が終わり、高校の連中と同窓会をやったときの経験が、著者のいっていることの裏付けになっていると思うのです。
理系ですから、まぁまとまってるといえばまとまっているけれど、専門としていることとか、
目指しているところなんていうのは全く違って。それこそ、何が面白いとか、性癖とか、ぜんぜん異なる。
でもやっぱりみんなで集まると段違いに面白い。

それは、きっと「多様性」が生むものなのだと思う。もちろん、心を通わせた青春の一員だというのもあるが、
そうではない。みんながみんな違って、それぞれの足跡がまったくちがうから、一点にまとめたとき、
カオスが生まれて、その混沌がまた心地良いのだと思う。
浪人時代の孤独が、それを反面教師的に教えてくれている。
馴れ合いというのはやっかいなものだが、友人を持つことはやはりとってもありがたく、おもしろいことだなと
再認識したのです。

その一人には「直結厨」だなんていわれて、僕もそれを非常に認めているところなのですが、
それでもやはり、異性とつきあうことは、自分の脳に新たな変化だったり、面白さを付け加えてくれると思うのです。実際そういう事を経験もしました。知的な女性と話すことはこうも面白いことかと気づけたのはいいことです。また誘ってみたいな。

話は変わり、今日読んだ本には、いわゆる、”ラノベ”とぶんるいされているものがあります。
僕は結構これが好きです。何が好きかといえば、もちろん、ストーリーの面白さが一番に来るのですが、
読みやすさという観点です。文が氾濫していて普通の小説より読みにくいラノベもありますが、
一般的に、もう少し読みやすいと思います。それが気持ちがいい。
たしかに、文学や新書と比べたら実になる知識やら考え方は少ないかもしれないけれど、
ラノベには夢があるとおもうのです。「くだらねぇ。何が夢だよ。現実見ろよ。」とおっしゃる方も
いるかも知れませんが、こういう夢こそが、将来的なヴィジョンだったり、やりたいことの原動力
になったりすると感じるのです。些細だけど面白いアイデアだとか、兵器の設定だとか、
現実離れしているかもしれませんが、それを現実にしたいなって考える人がいてもおかしくない。
そういう、夢をみる余地が残されているのがライトノベルの良さなのではないかなと思うのです。
「デュラララ9」も「新約・とある魔術の禁書目録」もどちらもとても面白い。一日で数冊読める
読みやすさで、尚且つ読後感はさっぱりしている。爽快だ。ライトノベルを毛嫌いしている人、
一度読んでみてはいかがでしょうか。

でもな、たまっている小説もあるんだ。「ノルウェイの森」も「1Q84三巻」も文学で行ったら「草枕」「芥川全集」
「老人と海」なんてのも全然読めてない。置いてあるだけ。いずれ読みたいですね。
でも、本は慌てて読むものではない。読みたい時に読んで、読めるときに読めるだけ、
潜るように読むのが一番いいんです。無理に読まされたりする読書は宿題で、全然面白くない。
自主性があって其れがモチベーションになって本に潜るのが面白いのです。

春のこの日差しを浴び、風の匂いを感じながら読書をするのはいいものですよ。


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「相対性理論と量子論」という本をやっとこさ読みきりました。
読後感のわくわくがすごすぎて、Twitterに連続投稿しそうになったのですが、思いとどまりこちらに
記載。

ともかく面白かったんですよ。生来、割とSFは好きでした。だからこの本がより一層ロマンティックで
面白く感じたのかもしれない。

数式は一切使わず概念的な説明をしてくれる本でした。
数式を用いないので、理解したとは言い切れませんが、腑に落ちた感じはあります。
高校で習う物理は、きっと基礎の基礎で、四則演算みたいなものなのでしょう(故に最重要だと思うが)。
ですが、先に上げた両論は、もっとすごいところにいて、もっとすごいところにあると感じました。
E=mc^2から、質量の存在するところにエネルギーは存在し、その影響で空間が曲がり、
その歪曲を物体が移動することにより重力が発生する云々カンヌン。すげぇのよ。
相対性理論からすると、空間も、時間にも重力が働いて、変形するんだよ?どういうことよ。
テンションガンあがり。
シュレディンガーの猫の発端は量子論。結論(納得してない人が多いが)は、多世界解釈。
「真空」の定義。俺が日本人だからか、被観察物と観察者によって、状況が定められるっていう
東洋式の一元論は腑に落ちるんだよね。西洋の文化っていうのはその二つを明確に割りきって、
二項対立というか、そういう成り立ちをして発展してきたと思うんだけれど、
二つを合わせて、状況と為すってしっくりきた。

ボーアだっけか。量子論のパイオニア。太極図を好んでいたらしい。
つまり相補的なものらしいんだ。

ホーキング博士の虚数の時間ってのがスゲェ気になるのと、余震が長いのであんまり寝れなそう。
かつてはあったって説いてるのよ彼は。大学レベルの数学に手を出してないから、
虚数って結局imaginary number、つまり存在しない数字なんだと解釈している。
でも、物質波を考えるとき、その存在確率とかって、複素数平面で考えてるらしいんだ。
複素数ってことは虚数が含まれてて、つまりそれって、虚数を許容しているってことでしょう。
虚数はもともと人間が便宜的に創りだしたものだと思うけど、それが、のちのちのでかい理論の
解釈にも役に立ってるってことだ。でも存在しないの?
わからない。語りたいw数学科行ってるあいつは、こう言うことまで手を出しているんだろうか。
カオス理論がどうのこうの行ってたから、結構踏み込んでるよなぁ。なにせ院にいくっていってたし。
俺が教養(ただ単に知的好奇心によるもの)をつけたとき、あいつとそこそこ話し合えないものかな。
数式なしに語り合えない世界なのか。

もっと本を読みます。

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◎ プロフィール
HN:
Nagisa
年齢:
34
性別:
男性
誕生日:
1990/02/21
職業:
学生
趣味:
ギター演奏/音楽鑑賞/アニメ鑑賞/いい声、音を聞くこと
自己紹介:
三年間を取り戻すには。もがくしかないでしょう。
inferior complexを改善する段階。
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