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21歳。大学に受かり、明るい明日を目指すも根本的根暗。 そいつがひねり出す言葉のそれぞれ。自分の過去ログ的な。

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 現状報告と言えば現状報告なのですが、そういう言葉でぱっとまとめたくない気もする丑三つ時過ぎの茶番劇が始まるよ。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 先日ですねー、mistという、まーそれはそれはゆうめいなスティーブンキングって人が書いた小説を原作にした映画を見た訳ですが、映画開始20分で、あ、こういう感じなのねー。っていう流れになってそれから後は、うるさいコンポを持った黒人が真っ先に死ぬB級ホラー的な感じになってました。俺サスペンスの項目で借りたのにDVDにはホラーってなってたんだよね。怠慢じゃ怠慢じゃゲオさんよ。

 そんなことはどうでもよくてですね。みなさま、人間である以上、寂しさという感情を持ち合わせていると思います。ええはい。よく知っているあいつです。独り身のときはまるでお化けのように、誰もいないであろう後ろから、首根っこをさっと持っていかれるあの感じ。
 しかしこいつは人類史上最強の敵でしてね。ドラクエでいったらぼうけんのしょがきえました。
レベルで、もう、仕組まれちゃってる。システムに組み込まれちゃってる。

 だから、人は他人と関わり、交わり、語り合い、笑い合い、泣き合いetc的な流れで、誰かとつながっているんですよ。寂しささえなければ、きっと人は孤独とともに生きていける。
明白ながら、こんなことはできないんですよ。んー、俺だけなんすかね。
俺の考えが、65億近くの人を覆い尽くせると仮定して話しますと、やっぱり、寂しさってのはつらさ。でも、これを乗り越えるためだったり、これを克服するためだったりに、いわば、負の感情を昇華するために、人間ってのはいろいろやるんだと思います。一人遊びの代表例で言えば、音楽だったり、映画だったり、読書だったり。こんなのみんな他の人ともできるんですよ。でも、一人で寂しさ背負って、それを自分の中でむしゃむしゃ食べて、それを飲み込んで、どうにか思って、誰かに見せるんすよ。あの、俺はこう思いますって。
 
 それはその人個人の考えで、誰も否定できるものでもなければ、誰しもに肯定されるべきものでもない。適当な人が、適当にかいつまんで、あー確かに。とか、それちがくね?とか思う訳であります。それでいいんすよ。個人が作り出すものなんて。個人が抱えられるものなんてそんなに重くなり得る訳がないんですから。キリストさんがくれた原罪なんてのでさえ、重いよ俺には、お前が背負ってくれよ頼むよこのままじゃ俺が倒れちまう。ってもんなんだと思います。

 で、結論として何がいいたいかっていうと、最初にいった通り、人は何かに触れていないと細々と燃え尽きてしまうってことです。今回の僕の場合、女体なんですが、そんなリビドー話はほっておくとして、このリビドーが、僕の音楽にコンバートされるなら、それは僕にとって喜ばしいことではあるんです。しかし、このリビドーが矛先を変えて、煙草やら酒やら、全然知らん女やら、その人間に固執することやらは、その時点で、もう燃えかすとか灰とか言うものなんだと思います。
 
 物事が自分を通り過ぎて、そこから向かう駅はきっとたくさんあるんです。けれども、いくことのできる駅って言うのは、自分って言う触媒によって既に狭められてるんです。相手のあることなら、相手によってもっと狭められたり、運が良ければ、ひとつくらい行く先を増やしてもらえたりもするのだけれど、大体は、減らされるもんなんです。自分が思った通りの道を進みたいと思っても、他人が関わるとその選択肢は削られてしまう。駅にシャッターが下りてしまう。
その事実があるにもかかわらず、僕たちは他人と関わらないと多分死んでしまう。やせ細ったろうそくの先っぽみたいに可及的速やかに消えてしまう。

 さて、この二律背反をあなたはどう背負っていきますか。
んや、こんな投げかけに意味はないんです。結局、俺の頭の中が勝手にひねり出した言葉なんですから。
 ただ、方向性は決めておいた方が楽ですよね。
僕はそうですね、wait or gorgeの二択ですね。今んとこそんな感じです。

酔っぱらいの戯れ言におつきあいいただき誠に感謝いたします。
駄文反省。再見。

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 おひさしぶりです。しばらくぶりです。
25日、僕は進学先の大学の寮へ向かうべく、池袋から深夜バスに乗り込んだ。
中は三列の座席が羅列され、人が通る間が均等に空いていた。
窓際に座り、窓も、運転席のフロントガラスも見えないように遮光カーテンが存在していることに気づく。
地獄だ。僕はねることもなく外を眺めることもできずにこのままはるばる六時間近くも
このバスに揺られていないといけないのかと思った。
飲み物も忘れ、車内に設置されているトイレもなんだか遠慮したかった。
そんな僕の心を読んでかしらないが、トイレ休憩なるものは当然のようになかった。
運転手の休憩のため、一時間半に一回ほどの停車で、僕の喉は枯れ果て、
僕の膀胱は肥大していった。

ついた駅は地方都市。なんといっても駅がでかいのが特徴だ。
道も路線もわからない僕はタクシーを拾い、寮まで向かう。あいにくの雨の中、その駅を写真でとった。
運転手は寮の場所を知らなかった。僕も当然知らなかった。iphoneを取り出しグーグルで検索し、
紆余曲折ののちたどり着くことができた。これは後で統計的に思うことだが、ここの運転手たちは
よくしゃべる。とても良くしゃべる。嫌ではないが、静かにして欲しい時もあるのだ。

寮内では各ユニットに10人ずつ割り振られ、五階のうちそれぞれに4ユニットで分かれているという
構造だ。

昨日か一昨日は、ユニットのみなさまと酒を飲んだ。
他のユニットの人達も混ざり、僕は結局4時まで起きていた。
昼間で寝込んだ。

疲れている。現在はといえば、インフルエンザか何かではないかと思われる症状に苛まされている。
眼球の奥は鈍く疼き、胃腸は何も吸収しないかのように痛み、口腔摂取したものは間を開けず排出される
という、極めてハイクオリティな凄惨たる痛めつけを僕に対して行っている。

ブログの文面で伝わるかはわからないが、おそらく僕は神経質だ。
おそらくというのは、昔は自覚があったが、今はわからないということだ。けれども、きっと神経質だ。
ユニットの方々とは割とうまくやれている気がする。しかし、入学式隣である人にすら
僕は話しかけられない。典型的な人見知りなのだ。ネガティブさの混ざった複雑なやつだ。
この人に話しかけたら僕はどんな印象を持たれるだろう。定型文での会話はしたくない。
叩かれば多少面白くできるという自信はある。しかしたたかれなかったとき、会話が頓挫してしまったら
僕はどう思われるのだろう。だのに女の子の前では格好をつける。自分の体が醜いというのにも関わらずだ。
なにもかも矛盾している自分の脳味噌は、それでも肯定的と否定的な意見を繰り出し、衝突させ、
結局のところ結論を出さないで帰結するのだ。

現在ゴールデンウィーク前半の二日目だ。2日にイベントがあり、その後の三日はまた休みだ。
僕は同じユニット内にいる活発だったり、理想的な爽やかな青年のように
人に話しかけられない。今のところ。特に女の子に話しかけるなんてもっての外だ。

ユニット内でみんなで酒を飲んでいるとき、僕は「人見知りには見えないなぁ」と
いわれた。他人のもつ僕へのイメージ(といってもあって少ししか経っていないのだから本質が見えなくて
当然)と、自分自身が考えるイメージというのはぜんぜん違う。

自分のことは醜いと思っていると同時に、鏡を気にする、ある意味で言えばきっとナルシストなのだろう。
気にして。気にして。しかしながら改善はしない。

部活をどうするか。重い荷物と一緒にエレキギターを背負ってきた。
これは僕がギターが本当にすきだから。弾いてないとちょっと嫌だから。気持ち悪いから。ギターが好きだから。
軽音楽部なんてとっても理想だ。楽器の好きな人と集まって一緒に音を出す気持よさを僕は知っている。

ところが、医者というのは体力勝負。そしてこれは建前で、僕はダイエット目的だったり、
それに付随して、自分の心が変わるのではないかという希望、健全な精神は健全な肉体に宿る
という考えを持っているので、運動部に入ろうかと思っている。
ここは正直わからない。しかし、きっと運動部に入るのだろう。それもわからない。

さて、ここからはずっと書きたかったことを書こう。(なのにいまの今まで忘れていた。)
それは、家族の大切さというものだ。おそらくこれを書いたあと、読者が僕へ抱く印象は、
”マザコン”とか”ファミコン”(マリオはできませんよ。)とかなのではないかと思う。それでも書く。

出発する前、僕は夕飯を自宅で食べた。夕飯前にはバイト前に時間を探して帰宅してくれた妹が、
携帯を片手に僕の目の前に現れ、僕をとり、2ショットまで取っていった。
贈る荷物を指さして「私が入っていってあげようか?」とかなり男勝りでかなりヤンキーっぽい妹がそういった。
僕はその後茶化してしまったが、そう言うのがとっても嬉しい。ヤンキーっぽくても、妹は優しいのだ。

弟は今年中学生にあがり、僕の部屋は彼に受渡した。彼は割と僕を慕っていてくれて、
まぁ僕は彼の宿題などを教えたり、宇宙のことについて話したり、男の子の会話をしていたわけだ。
やはり離れるのは寂しい。僕が本格的に東京に帰るとき彼は大学生くらいなのだろうか。

父とはやっぱり男の子の会話だ。でもやっぱり尊敬というか、
彼に持ってないものを僕は持っているが、男としてみたとき、彼のほうが男らしいと僕は感じるのだ。
彼のように男らしかったり、多少強引ならば、今頃付き合った人はかなりのものだろうと、
彼の過去の話を聞いたり、自分の足りないものと比較したときよく思うものである。

そして母だ。great motherなんていいますが、偉大です。体を痛めて僕を産んでくれた。
浪人時代叱らず僕に飯を作ってくれた。特に三浪目なんてありがたかった。
毎日毎日ご飯を作ってくれることがこんなに有難いものだと思うのは多分あれが初めてだろう。
母は入学式の一日前に都市のホテルに泊まった。そこで僕と買い物をし、夕飯を一緒に食べた。
入学式のあとは昼飯を一緒に食べた。そして帰った。僕は彼女と別れるとき、いつも心が張り裂けそうで
なんだか泣きたくなる。切なくなる。

なんだかんだ言って僕は愛されている。平気なふりしても結構な頻度で連絡をくれる母が僕は愛おしい。
だってこれを書いている僕はなぜだか涙がこぼれているから。
絶対にマザコンだと思われているだろうなw
けれども、それは事実だろう。僕はまだ大人ではない。おもいっきり子供だ。
自分のケツは自分で拭けない。21にもなったのに。21年間の密度は、おそらく薄い。
それは僕の引っ込み思案がそうさせたのかはわからない。しかし、その過去は変わらない。
だから僕はここから大人にならなくちゃいけない。帰ってきたとき大きくなったと思わせなければいけない。
父親が死んだ時兄弟の世話をしなければいけない。僕は長男だから。僕が大人にならなきゃいけない。

妹は海外に行ったのに、全然泣かなかったろうな。僕は東京から数時間、帰ろうと思えば帰れるのに
今こうやって感傷にひたっている。なんて情けない。なんて脆い。なんて弱い。
ホームシックにしては早過ぎるっていうの。まったくねぇ。嫌になっちゃいますよ。

きっとこういうふうに精神とか体の調子がおかしいのは、まだここに慣れていないから。
まだここに心がないから。でも僕はここにいる。体も心もここにある。
適応するんだ哺乳類。

ふぅ。なんだか心がすっきりした。文字を書いてて涙をながすというのを初めて味わった。
文章は心を動かすね。ブログは自分の感情が乗るね。おすすめだわ。

さてさて、今回はここらへんで閉じさせていただきますか。
ゴールデンウィークが暇で暇で仕方ないのですが、僕の体はガチで内部系がやられているので、
休養します。リア充め・・・女と遊んでんだろうなぁ・・・嫉妬(shit)

ではでは、みなさまも、家族とは何かとたまには考えてみてください。
当たり前なことは、当たり前じゃないんですよ。そこにあるのがすごいことなんです。



追伸 ここのネット環境がヤバい。4時間に制限されている。
そして、PCがヤバい。skypeでテレビ会話すると切断される。やばいよぉ・・・
カメラを家に帰って持って来るべきか。しかしながら、家に行っても
誰かと遊ぶわけでも、どこに行くでもない。母の作った旨い飯と、愛らしい犬とたわむれるだけなんだ。
こういうとこで交友関係って出るのかな。

追伸2  同級生にも見られる可能性があることを忘れて書いてしまった。  
今更になってとっても恥ずかしい・・・なさけねぇ・・・くあああああああ。でもこれが今の俺。
ヘタレすぎるw

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 こんばんは。最近は外出もしないであっついあっつい屋根裏にこもって昼に起きて
本ばっか読んでる僕ですどうも。
屋根裏部屋の暑さは異常。遮光カーテンとかなんのその。熱は突き抜けてこっちに来るわけで。

さてさて、本日、『世界を読みとく数学』小島寛之著を読みまして。

この本で数学の本は5冊目とかなんですけど、一番面白い数学の本でありました。
というのも、今まで読んだ本が数学の来歴とかを主軸にしていたのです。
『人物で語る物理』なんてのは、かなり面白く読めたのですが、『数学入門』も面白かったとは言え、
やはり来歴(人物含む)を軸にして語っていた本で、現実には寄ってこない本でした。

そこで先の本を読んで、まぁなんて現実、リアルに足をつけた本なのだろう(かなり数学的で、うわらばとなるとこもあり)と思いました。尚且つ数学のおもそろさを伝えるような。

でもやっぱ数学というのは難しいですね。確率論(逆確率とか)、カオス理論、シュレディンガー方程式
その他もろもろ、名前は聞いたことがあっても、いざ眼前に出されると、おいらもう食えねぇよ・・・
って嘆きたくなるくらい。それでも噛み砕いてくれてるんですよ。他の本より数学的だなと思いましたが、
それでも幾分噛み砕いてくれている。きっとシュレディンガー方程式の説明なんて講義なら二時間以上
係るんじゃないですか?ですが、面白かったわけで。

そんなこんなでbeyond meな本をぐわーっと勢いで読みまして、思考回路はもうZUTABORO.
脇の下にも汗を掻くほどの血流が僕の脳に行き渡ったのです。

しかし、今日は読書感想ではない。インスピレーションは先述のものからバリバリ受けているのですが、
一番最初に書いたエントリーに虚数の話がでてきましたよね?
つって、今日はじめて見てくれた方は一番最初のエントリーをご覧になってください。
今日は虚数に関して、多少見解が変わったので、書いていきたいなぁなんて思いまして。

井の中の蛙大海を知らず状態の僕は、虚数を含める複素数で数の世界は閉じられているんだ。
なんて考えていました。本にもそこまでの説明しか書いていなかった。
高等数学をやっていないペーペーの僕からしたら、そこで終わりなんだと思っても致し方のないことではあると思うのですが、案の定、まだ深みがあった。

解釈としては、もしかしたら、複素数で終わりかもしれませんが、先の本では、また新しいものが、
最後の章にでてくるんです。”イデアル数”ってんがでてくるんですよ。
これはあの有名な”フェルマーの最終定理”という予想を証明するための突破口になるらしいのですが、
この数は、ガウス整数?だとかよりももっと広義的で、汎用性の高いものらしいのです。
解釈の仕方としては、複素数を、便宜的に虚数を創りだしたように、複素数の世界からまた
細分化して、便宜的に、かつきちんと帰結性があるようにこしらえたものらしいです。
まぁそんな世界があるんだなんてのも僕は不思議なんですが、
虚数はそもそも、3次方程式以降のn次方程式の解を出すために便宜的に作られた数です。
imaginary numberの頭文字をとって、iと表されています。
だから僕は、頭の中だけ、数式の中で齟齬がないようにするための数字なんだな。って思ってました。

ところが、本書でわかったのが、虚数が決して文字通りの虚構の数字では収まらなかったということ。
全ての物質は、”波”と”粒子”の性質をもっており、量子学になると、物質の存在は、
かつてあった決定論的なものではなく、確率でしか存在を推測することしかできなくなります。
そのとき、その量子の存在確率を演算するために使われるのが先ほど書きました
シュレディンガー方程式らしいのです。波動方程式とかっていうんですか?
とにかく、シュレディンガーさんは量子の存在を推測できる式を作っちゃった。
そして、その中に含まれているのが”虚数”だというのです。著者は、これをもってして、
虚数が現実世界にも存在していた、というようなことを書いています。

僕個人として、「えっ?式でかけるから現実にも虚数が存在するなんて言えなくない?」
というのと、「でも現実に存在する量子の存在が、虚数を使うことで測れるなら、やっぱり虚数は現実にあるのか。」という考えがアンバランスにシーソーゲームしてます。
ですが、このエントリーを書いている今の心としては、後者をとりたい。
一番最初のエントリーにホーキング博士が「虚数の時間が存在していた」なんていってたのを書いたのですが、僕自身、それは物理の特性上、数学という言語なしには事象は語れなくて、
その数学に虚数というものが含まれているのだから、仕方ないのかな。って思ってました。
というのは、まぁ、僕ら人間は三次元空間しか行き来できないけれど、多次元空間がある!って
数式で表されるなら、僕はもうそれを信じちゃうよ。みたいなノリです。

ですが、シュレディンガーのことで、やっぱり虚数ってのも現実なのかなって。
でも、人間が演繹的に発見したものが現実にそんなに食い込んでいいものなの?なんて思うんです。
もしかしたら数学って、なにかすっごいばかでかい宇宙規模の、いわゆる外国諸国の方々が
神様ってよんでる存在が人間にくれたでっかいパズルなのかなとも思うんですよね。
なんだか宗教臭い話になってきやしましたが。

この話をよんで、フィクションが現実に干渉することもあるんだなぁって。
現実とフィクションが相互で補いあったり、現実における軋轢で「疲れたよパトラッシュ」になった人が、
フィクションという世界に一度たゆたい、たまった疲れとか怒りを流し出すとか、
はたまた、それですっきりしした身体をまた現実で酷使しに頑張るとか、
そういう事は、全然okで、ありえるんだなっていう、とてつもない拡大解釈をしてしまいました。


兎にも角にも、人が創りだしたものが、元々ある土台に影響するってのは面白いですね。
今ある環境も人間が創りだしたフィクションなのかもしれないものね。
『マトリックス』で、モーフィアスってのが、エージェントに捕まるんですよ。
そこで自白剤のまされて、耐えてるシーンで、エージェントスミスは
「哺乳類というのは環境に適応する。しかしながら、人間だけが環境を創り出す。」みたいな事をいうんです。
これはもっともで、ここまで世界を自分の側に適応させる動物って人間以外に僕は見たことがない。
フィクションって、日本語にすると虚構とかって意味になりますよね?
『マトリックス』的な思考になりますけど、じゃぁ現実ってなんだ?
養老孟司さんは「物」というのを「互換で感じることができるもの」と定義していましたが、
じゃぁ「現実」ってなんだって。

僕は随分前から、『マトリックス』って、割かしあり得る世界なんじゃ・・・って思ってたんですが、
今回の本で、ちょっとそれが増したかもしれません。

まとまんねぇなぁおい!でも、これが僕。
それでは今日はこのへんで。

追伸 昨日から胃腸の調子がおかしい。みなさまもお気をつけになって。僕もさっさとなおさんとね。


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 前回食あたりだったやつが復帰して、久々、むしろ初めて四人がまとまって集まった今夜、
僕は酒気を帯びて、PCの排熱で暑くなった部屋でひたいに汗を浮かべながらブログにとりかかるわけで。

食あたりだったやつが復活したことにより、会話の大半が恋の話。なんだかんだ若いですね。
そんななか、やっぱり思ったのが、僕は恋愛の経験があまりにも少ない。
まぁああいうものは一回が衝撃的ですからそう何度もやるもんじゃないとは思うけれども、
やはり人並みに人と付き合いたい。
やはり、僕が浪人している間、僕の同期は確実に恋をしたり、おとなになったりしているわけで。
やっぱり女の人は大人びてくるなぁというか。
僕もいい思いしたいよ!というのが率直な意見ではあります。
「そんなでもやっぱり恋したいよね僕は。」とほぼ無意識で僕はたまに気障っぽいことを言うので、
一人の方に「ううさむー」と言われてしまいました。考えて発言したいですね僕の脳みそ。

まぁそんな飲み会の話を振り返ると僕の経験値不足が浮き彫りになってげんなりするので、
題名にある通りの話をしましょう。

昨日のエントリーにも上げましたが、スティーブジョブスの演説を聞いて思ったことが多少ありました。
それは「幸運」について。about fortuneってとこです。
そもそも此の言葉自体がかなり抽象的で、うまく説明ができません。
うまく説明できないどころか、うまい例すら浮かばないものです。

しかしながら、成功者あるいは失敗者の体験談をみると、そこには紛れもなく「運がいいor悪い」としか
言いようがないことがあります。

たとえばfacebook創設者のザッカーバーグだって、ルームメイトに恵まれ、パートナーに恵まれ、
エンジェルに恵まれ。これは幸運であった事柄でしょう。

運というのは、立場、タイミング、それまで費やした力等に多少は比例するのだと思います。
がんばったけどできなかったよ!運がなかった!なんて人もいます。それはたしかにいます。

運というのはなんでしょう?何が起因して訪れるのでしょうか。
訪れるべくして訪れているのでしょうか。幸運を含めて、天賦の才というものなのでしょうか。

でも、これを肯定してしまうと、「幸福量保存の法則」なんかにいっちゃいます。これはまず無いでしょう。
しかし、この「無いでしょう」がもしかしたら間違っているのかもしれない。
幸福量は保存されているのかもしれない。それが結構危険な思想だな。なんて思ってる僕の頭の働きは、
何かに、誰かに影響されたからそう思ってるだけかもしれない。それでも、やっぱりその保存則は危険なような気がする。どうしてもする。つかやっぱないよ。自分以外全員消したら幸せになれるかって、なれないし。

つまり、幸運っていうのは、光の粒子みたいに、観察してないときは波になって漂っていて、
観察すると粒子状に目視できるんじゃないか。
幸運っていうのも、普段はどこかに漂っていて、成功例を観察したとき、ああ運がよかったなと解釈できる。

ではどうやってそれを手に入れるのか。観測できるからには抽象的ではあれ、ある意味物理的だ。
でも、手に入れる方法なんてわかんね。絶対わかんね。開発したらノーベル賞あげます。
ピューリッツァー賞でもフィールズ賞でもいいよ。あげます。僕じゃなくても誰かがくれます。

言葉の使い方が間違っていることで有名なボクシング漫画、「はじめの一歩」からの引用ですが、
『成功したものはすべからく努力しておる』なんて言葉があります。
努力という言葉は、僕はなんだか無意識的な嫌悪感を抱くのですが、
しかしながら、やはり運を手にするものは、何かしらのアクションをしているように思います。

けれども、ここで思うのが、そのアクション故に運を手にしたわけではないと思うということです。
そのアクションを含め、その「人」が第三の手か、吸引器だか知りませんが、運を吸い寄せている。
アクションがトリガーになっているわけではないんです。
その人がその人足りえる条件とか、その人が醸し出している雰囲気だとか、オーラだとか、
そういう眼に見えないものが、おそらく運(それは人であるか事象であるかはわからないが)として
舞い込んでくるのではないかと推測します。
ある種の「カリスマ」といってもいいのでしょうか。

というように、運について考えたとき、僕の頭の中にはこの考えがぐるぐるぐるぐる廻っていたりします。

自分が運を吸い寄せようとおもったら、何かを一途にやったり、同時に色々なものに手を出したりすることが
必要なんじゃないかなって思いました。

追伸 飲み会の前にツタヤによって本を買おうとしたのですが、半端じゃない汗が額から吹き出してきて、
上着を脱ぐはめになりました。レジに並んでいた女の子ふたりに「なにあいつ汗かいてんの、やばくね?
あの汗やばくね?」なんて言われてるよなぁなんて思っちゃいました。
だれでも。いいえ、ネガティブです。ご存知のとおり僕のネガティブは筋金入りですが、
運がどうこうの前にここらへんを修正したいって考えてます。難しいですね。

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どうもこんばんは。先日やっとのことで運転免許証をゲットしたボクですこんばんは。
とったのはいいのですが、実は一回目の学科で一点足らずに落第してしまいまして。
大学浪人して、運転免許も一日浪人するって笑えないですよ。
落ちた日は久々に壁を殴って穴をあけたくなるほどの怒りやら、自分の腑抜け感がひどく憎らしく感じるやら、
感情がすごかったです。そんなこんなでそれをバネにして、翌日は見事にリベンジを果たしたわけですね。

ここで気付かされたことは、僕という人間は、追い込まれないとポテンシャルを引き出せないタイプなのではないか
ということ。簡単に言うなら、夏休みの宿題は最後の3日くらいで一気にやる感じなのだと。

今年受験に合格するまで、僕は三年間浪人しました。
現役、一年目、二年目なんて、全然勉強してなかったです。
でも今年に入って、まぁ先日も申しましたとおり、周りが大人になっていくのを横目に見ているだけは
もうこりごりだと、そういうような一種の焦燥感やらが起因して、僕は頑張れたわけです。

免許の件も同じなのではないか。どこかでなめていて、「余裕」と「油断」を履き違えたまま
臨んでしまったのではないかと。
一度失敗して、自分の心がすごい混沌として、其れがモチベーションになって爆発する。

単なる二回しかない事象で、しかも互いに異なるシチュエーションなので、統計としてはものすごく稚拙な
ものではあるけれど、この二回で、今の僕のアウトラインはだいたいつかめた気がするんです。
僕自身がバネだとすると、ちょいちょいの押し込みでは伸縮しないのだと。

ですが、世の中にはこんな至言があります。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」というものです。
今の二つの例をみる限り、今の僕は明らかに愚者。そして歴史もそれほど勉強していないという
無料オプション付き。(歴史の勉強するために世界史の教科書は買ったんです。)
賢者になりたい。生まれたからには。
ですが、人間ってやはり、自分の身体や精神を通して、痛い目を見たことから学んでいくと思うんです。
自分が体験していない限り、それは自分のリアルとはまた別の世界にあると言ってもいい。

追体験なんて言葉がありますが、それは結局自分の脳内のイメージでしかなくて、
心の傷とか、脳のシワとかになるようなでっかい体験には成り得ないと考えるのです。
おそらく、追体験で学ぶ、先の言葉が定義する「賢者」というのは、
ものすごく過敏で、感情が鋭利で、仮想世界でも傷がつく、いわゆる「マトリックス」のあれです。

「マトリックス」の主人公ネオが、初めて現実世界にやってきて、格闘訓練を受ける際、
マトリックス(仮想世界)にてモーフィアスと訓練するのですが、格闘の際、ネオは仮想現実であるにもかかわらず傷つく。それは脳が現実だと認めているからだ。とモーフィアスに言われ、コツをつかみ始めるのですが。

つまりですね、歴史から学べる賢者というのは、脳がものすごい。歴史の教科書を読んで、
自分がまるでその時代に生きて、そこにいるかのように感じているのではないか。
其れがあまりにもリアリティをおびすぎているので肉体と精神が、「経験」と同じような衝撃を
感じて、賢者は賢者足りえるのだろうか。なんて思ったんです。

ですが、そんな賢者がいくら歴史を学んでも、「死」とか、そういうものを「経験」することは、ほぼ出来ないでしょう。ヨガの達人になって心拍をコントロールするくらいにならなきゃ、概念的にすら理解は出来ないはずです。
ということは、結局賢者なんていないんじゃないかって話になるんですけど。

かといって愚者にはなりたくないんですよ。賢者じゃなくてもいい。でも右大臣くらいになりたい。
あだ名が右大臣でもいい。「おい右大臣、野球しようぜ!」なんてことを言われるくらいになりたい。

結局何が言いたいのかっていうと、僕は原理主義は嫌いですが、ある意味肉体原理主義的なところはある。
自分の、脳を含む肉体というインターフェースを介して経験することで、ひとって成長できるんじゃないの?って思うんです。例外は間違いなくあるとおもうんですが、脳だけで思考を繰り返して、「できました」とか「わかりました」とかっていうのは嘘なんじゃないかとか。フリなんじゃないかとか。

大好きな人と喧嘩しましょう。しました。お互いに言い合って、「あんな事言わなければよかった。」
とか色々な後悔をする。少したって謝る。「あの時はごめんなさい。僕が悪かったです。」
仲直りする。あぁよかった僕はまだこの人と一緒にいられるんだ。あぁよかった。

ここまでの感情の起伏を「体験」して、やっとなんというか、恋の痛さとかを「知る」ことができるんじゃないかと思うんです。
これを、頭の中だけで、まぁいわゆる妄想ですよ。妄想して、心に穴が開いたようにまでなるのかっていったら、
「経験」してない限りは、リアリティなんて現れないと思うんですよね。

やっぱり、経験することは大事だなと。だからこそ、再三申しているとおり、色々なことに手を出してみたいなと。

運についての考察、なんてしたかったんですけど、また今度にしようかな。なんだか筆が進んでしまった。

追伸 長瀬愛とか堤さやかとか、やっぱよかったよね。美人じゃなかったけど、やっぱよかったよね。

あとあと、アメリカ人のあのパーティー好きはなに?そして大学生のだいたいのパーティーが
そういうふしだらなものを含んでるってどういうこと。混ぜてください。





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◎ プロフィール
HN:
Nagisa
年齢:
34
性別:
男性
誕生日:
1990/02/21
職業:
学生
趣味:
ギター演奏/音楽鑑賞/アニメ鑑賞/いい声、音を聞くこと
自己紹介:
三年間を取り戻すには。もがくしかないでしょう。
inferior complexを改善する段階。
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