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21歳。大学に受かり、明るい明日を目指すも根本的根暗。 そいつがひねり出す言葉のそれぞれ。自分の過去ログ的な。

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日々教習所に通っていて、運転中は割と神経を使い、一日三限ある日が連続し、
結構疲れてきたというのが本音の私ですこんばんは。情け無いなんて言わないで。

某駅から校舎までの送迎バスが出ておりまして、私はそれに乗って教習所に行くのです。
そんななか、私、通ってひと月近くになりましたが、今日の帰りの送迎バス内、
初めて起こった出来事がありました。

私は後ろとか、端っことかが好きな人間なんで、最後部座席の右はじに座りました。颯爽と。
すると目の前の二席にとあるカップルが座りまして。初っ端からいちゃつく。
座ると同時に右側、つまり私の目の前に座った男は、彼女の肩を抱きよせ、髪の毛のかほりを嗅ぐ。
その時点で、私は引きこまれた。ウルトラヴァイオレットどころではない。
事実は小説より奇なりなんて過去の偉人はなんとうまい言葉を発せられたことかと思いました。
ミラ・ジョヴォヴィッチが指すら触れずに敵を倒すより、人目を気にせず彼女の髪のかほりを
検査する男のほうにある種の違和感がある。
人目も気にせずチュッチュしなさる。彼氏は終始猫なで声というか、甘ったるい声を放つ。
彼女は終始耳打ちレベルのボリュームの音声を放ちたるが如し。
そうかと思えば、発車数分前になると、「んー~のほうがいいね。」といい、正反対の駅行きのバスへ鞍替え。
あっという間のことで、私は卑しかったり、プライベートを粉砕しかねないが、その行為中、私の胸中を
徒然とツイートさせて頂くなどをしておりました。

ここで少し考えたのです。
養老孟司著、「死の壁」にて、死の「人称」について述べていらっしゃいました。
まずは、「一人称の死」について。自分自身の死であるから、みることが出来ない。
次に、「二人称の死」について。つまり英語で言うところの'you'の視点。大切な人の死です。
そして最後に「三人称の死」について。同様に'she,he'の視点。つまり全くの他人の死です。
簡単に説明するとこのような話が、作中で有りました。

私は卑屈で、好意的に解釈するなら人間的ないやらしさのようなものを持ちあわせております。
彼に習うわけではないですが、「幸福」について考えたとき、それは「人称」によって、感じ方が異なるのではないかと思ったのです。
まず「一人称の幸福」。私自身の幸福。当然のことながら、おそらく一番嬉しいであろう「幸福」でしょう。
そして「二人称の幸福」。自分自身が大事にしている方がなにか幸福になられたら、自分にもその
幸せはきっと伝播するでしょう。しかしながら、多少の妬みが存在するときも少なからずあると思います。
最後に「三人称の幸福」。これは、個人的な意見ですが、だいたいが妬みに変換される。
誰かが財を築く。誰かが大学に合格する。いわゆる'others'の幸せ話は、往々にして、こちらにまで
幸せは伝播しないものだと思う。それどころか先に上げたとおり、妬みなどが生じてしまう。

私が今日体験した「目の前でいちゃつかれること」という事象に対して、私が抱いた感情は、
嫌悪や、その二人が私との「常識」を共有出来ていなかったことに対しての不甲斐なさとかではなく、
単純に、妬み。私が持ち合わせていないものを、その男性はもっていらっしゃった。
それに対する私の妬みという単純にして強固なる感情だったっと回顧するのです。

なんて狭量なんだ。なんて矮小なんだ。なんて卑屈なんだ。時たまそう思います。
しかしながら、これも人間たる感情のような気もするのです。きっと私だけが持ち合わせる
思考回路ではないと思うのです。

他人の幸せが自分の幸せ、いうなれば、全身性感帯とか、すっごい性格のいいジャイアンとか、
なんと言い表すかはわかりませんが、そうやって他人の幸せを自分のものとして捉えられる人は偉大です。

他人を幸せにしたいとは思うけれど、それで幸せになってくれた方々は、おそらく「二人称の幸福」
にあたるので、私は幸せを手に入れられるのではないかと。

禅問答!禅問答!
やめましょう。こういうのは坊さんに任せます。

みなさんのこういう考えなんかを見てみたかったりもするのですが、
私みたいに小さいことをちまちま考える人のブログを見たことがないんですね。ただ手を出してないだけなんですが。

でもね、私は皆様が幸せであれとは思ってるよ。ウソジャナイヨー。


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 やっぱり思ったこと/考えたことカテゴリーに収束するのではないかと思わざるをえない午後十時半です
こんばんは僕です。

昨日は、たいそう面白いことがあって。幸せになりました。
若気の至りは「間」を恐れることなのかななどと考えたのです。
「空間」が大事。「空気」が大事。

そしてまぁ、今日思ったことは、結局自画像(写真)を掲載していても、それはどこまで行っても二次元
でしか無いということです。
巷では二次元に恋する人々が増えてきました(あくまでネット上の話で事実は定かでないが)。
増えていることを仮定して話を進めます。
僕自身、趣味なんて千差万別、十人十色なんで、二次元にいくら恋をしてもいいと思う。
それで幸せなら、その人は幸せで、それが幸せだと思います。

けれども、僕当人はといえば、完全に三次元趣向。下世話な話、二次元を対象に自慰行為に及ぶことは
僕は出来ない体質(あぁなんか直截的な下ネタ。反省・・・しない)なんです。
どこまでいっても、三次元がベスト。その人がいることで空間が歪曲し、その人が
声を発することで僕の鼓膜が振動し、その人と会話することでその人の人となりが漠然とわかり、
その人に触れることで人間だと感じる。

友人にしろ恋人にしろ、「肉体」がないかぎり、一方通行でしか無いわけで。
と、今ふと不思議に思ったのが、「恋人」を二次元に持つ人でも、「友人」は三次元ってなんか
面白いですね。

とにかく、この世界のどこかに、実態としての肉体を持っていて、積極的に世界に対してアクションできる
存在ってのがいないと寂しいんじゃね。ってことなんです。

そんなこというと某48の方々とかを対象に思ってるのはどうなのかとも思う。
可能性は0ではないが、限りなく偶像。もう神仏とかに近い。憧れと恋焦がれるってのは違うのかな。
そこらへんの区別とか、感情は僕には今のところ理解できてはいませんが。

話をバッサリ変えて、思ったこと2.
数学的な論理などを、例示を用いて噛み砕いた書物は有用だが、
過去の偉人の言葉などを例示を示して噛み砕いた書物はあまりそうは思えない気がする。
検証するだけの母数にあたったわけではないが、その二項を対立させると、
個人的に、明確に有用さに差が生じたように感じた。

数理的なものを噛み砕くというのは、概念として自分の中に取り込む際に大きく役に立つように思う。
数式を用いない時点で「理解」とは言えないのだが、言葉だけの説明でも「取り込む」ことはできる。
そこからの活殺はその取り込んだ個人の脳内の働きに依存すると思う。
一方、後者の場合、例示を示すことによってかえって煩雑になり、
また作者のバイアスが混じり、その人の思想ごと取り込んで
しまう場合が多い。逆に言えば、原典を現代訳したくらいのもので十二分で、むしろそれを読むことのほうが
はるかに有用ではないかということだ。(現代訳にもバイアスが混じるのではという懸念は捨てる)
つまり、数学などの言語を日常レベルの言語に落とすことは、円滑な理解を促進するが、
日常レベルの言語の書物に例示を混ぜると本質が見えづらくなる場合があるのではないかということだ。
結局のところ、日常レベルの言語で書かれた書物を読み、解釈するのは自分自身であるがゆえに、
例示が絶縁体のように、理解の妨げをしている可能性がある。
その文を読み、その文を飲み込み、そこから熟成させるのは自分である。
その時に、作者の例示と、自分で出した結論は、かなり違ってくることがある。
そうなることを考慮すると、例示ごと飲み込んでしまうことで、「新しさ」とか「自分の中での解釈」とかが
ねじ曲がってしまう。
そこをねじ曲げることは、あってはならないように思えるのだ。

偉そうになにいってんだこのピザは。
僕は言葉の前に「~だけど」のように、エクスキューズを入れる癖があったりする。
これは一種の防衛かもしれない。ある意味の謙譲なのだろうか。癖なので無意識下にあるのだが、
自分の言葉を振り返ると、こういうへり下りが多い気がする。いいのか悪いのか、相手の癪に障るのか障らないのかはわからない。だからいつも恐怖が付きまとう。

偉そうになにいってんだこのデブは。
ということで、いつもどおり、相手に伝える気のない文のような気がしますが、
自分の中身をどこかに放り投げるという行動なので、いいのかな。
これを読んでうんとかすんとかいったり、思ってくれる人がひとりでもいれば、僕は「うん」という。
カウンターが結構な人数を示していて、僕、満足!

閲覧感謝!再見。

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 基本的に僕のブログのエントリーはほとんど思ったことと考えたことでしか形成されないのではないかということに
今気づいてしまった僕ですこんばんは。

先日仮免に受かったので、今日から技能の時間は路上に出ます。
もうね、スピード感がぜんぜん違う。「えっ、30キロってこんなおそいんすか?」ってくらい。
逆に言えば、すぐに60キロなんて出しちゃう。
路上に出て初めてギアをトップまで入れるんですよ。今までだってサードは体験でしかいれられなかった。
だけれども、路上じゃトップ入れるの当たり前。全然いれちゃう。先っぽどころじゃない。全部。
やっぱ車は面白いなぁ。
しかし!路上に出て思った。人が怖い。巻き込み確認してるつもりで、バーっとチャリが来る。
これが小さい子だと思うと余計怖い。夜間だったこともあり、当然のことながら視界が悪い。
これほどまでに見えないものかと。気をつけましょうね。
あとは、歩行者の危うさ。車が待ってくれてると思い込んで、平気で走ってくる。
車を運転することによって、歩行者側の危うさが見えてくる。ある意味セレンディピティ。

「こういう偶然性が面白いと思うのです。」と、僕は唐突に話を切り替え始めた。
まずセレンディピティって言葉は「AをするためにBをしていたら、偶然Cということが出来ました。」
みたいなことで、それはたくさんの知識を得るために、まずはたくさんのことに手を出す過程で
よくあると、茂木健一郎氏の本を読んで思ったのです。
小さいことだけど、さっきの車と歩行者の関係だってそう。
これはセレンディピティというよりは、二元論のもう片方をつかめた感じに近いかもしれない。
この小さい例を拡大していくと、国民についてとか、たとえば、日本にしかいたことがないけど、
他国の人を否定するだとか。これは、実が伴ってないと、思っていた。
しかしながら、僕も否定するような意見を持っている。これは人間として浅い。
ある意味の原理主義、一元論。答えなんて無い。なあなあで行けばいい。いいとこ取りで。
纏めるとですね、経験したことのない事物に関して、安易に否定するべきではないということ。
僕は口が軽いというか、ネット上じゃ思ったことばんばん発言してしまう性格ではありますが、
否定的な意見は、まず心にとどめておく。時間をかけて熟成させる。ここでようやく自分の意見になるわけです。
もちろん、この熟成期間だって、ただ考えるだけではなく、実際経験してみることが最も肝要であるように
思う。物理の思考実験みたいに、脳内だけでぐるぐる回すことも尊いが、やはり
自分の肉体を通して感じたものが、直感であり、それが全てなような気もする。
何を言いたいのかわからないことがたくさんあって、他者にこれが分かってもらえるかはとても不安なところだ。
もっと言葉のスキルを磨きたい。

あとあと、ツベルクリン反応って48時間以内にみてもらわなきゃいけないのね!
俺はてっきり、そっから反応が見えると思ってたら、「はいもういっかい最初からー。」との報告を受け、
ガッデム状態に入った。

それが原因となり、色々とイライラが伝播するわけです。なるべく冷静でいようとするし、風呂場で歌って
発散しようともするが、放射性物質(ごめん、放射性物質か放射線か、体内に蓄積されるのどっちか
わからん)のように、心とかにずんずん溜まってく。
それが、自分のキャパシティーを超えると、すごい衝動になる。人を殺めたり、誰かを傷つけたり、
プラスの方に働けば爆発的なモチベーションにだってなる。
でも、正負どちらにしろ、衝動というバネが伸びきったあとは結構大変だと思う。
だから、僕みたいに、ガス抜きのように、ブログを書くのはいいことだと思う。
書いてて思ったのが、ある程度そういう、感情とかが心にたまった状態でブログを書くと、
ブワーって勝手に指が動く。そう言うのがないときは、多分つまらないエントリーになってるだろう。
見てる人はおそらく一目でわかるくらいの差があるとおもう。

とまぁ、今日も今日とて長々と書き連ねてきましたが、先も言うとおり、心に何か可燃物があったほうが、
ブログは燃える。そして総じてそのほうが面白い。マイナス感情は避けたいけど、人である限り
持ちうるものだもんね。うまく消化していきましょう。
そして、出来ることならプラス感情を積極的に掴んで、それを面白いものへとフィードバックしていきたい次第。

明日は、お世話になった予備校に、挨拶兼、ロッカーの整理に行きたいと思います!
読む時間を割いてくださったことに感謝します!
それでは。再見。

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 マルチタスクの初歩ってなんだろうって考えたときに、トイレ入りながら歯を磨くことだと思い、
たった今実践してきた僕ですこんばんは。
ブログって、昼に書いてもいいのに、なんか一日のまとめ的な立ち位置で、どうしてもこういう時間帯に書いてしまう。それはそれでいいのかな。

見事に仮免には合格してまして。ほっとしました。三浪故に試験というものに、なんであれ
過剰なチキンハートが発動して、割と焦ってガツッとwebと問題をやったら受かりました。
実技では緊張からかエンスト3回して、これはやべぇなと思ってたんですが、無事受かりました。
無いかもしれないご声援ありがとうございました。

大学合格の、合格祝いで、以前親戚に、モンブランの万年筆をいただきました。そのかたが、
最初に候補に入れてあった「宮沢賢治全集」をどうしても、大学に行く前に読んで欲しいということで
頂きました。まだ読んではいないのですが、久しぶりの文学、そして、読んだことのない作者なので、わくわくです。

話は変わって、大学で使うラップトップ用にmicrosoftのintelli mouse opticalというマウスを購入していて、
今家にあるPCでは使う予定はなかったのですが、使いました。半端ないです。5ボタンもレスポンスも、
快適。美女に背中をツーッってなぜられている感覚に近い。(経験はないが)

あとはそうですね、昨日またもや本を買いまして。孫子の兵法についての本を読んでいるのですが、
やはり、エディターの方向性によって、孫子の兵法の一部が紹介されているだけです。
これをきっかけにして、必要そうであれば、原典に手を出すというのが賢い読み方でしょうか。

友人がエクスペリアアークを購入。ついでに僕も封印していたフリック入力を訓練する心持ちです。
早くて、ミスが少ないというのは利点ですよね。PCうちだと、やはり文字が小さくて早くも打てず、
誤字脱字も多い。なれるまではフリックも同じでしょうが、慣れてからは上みたいな感じらしいです。

その友人からは「シュタインズ・ゲート」をクリアしろとの御達しがあるので、とりあえず買いたいなぁ。
と思索中。

書いていて自分で思うのですが、僕のブログはとりとめもない。繋がりもない。これは友人にも言われた。
けれども、あふれるものはあふれる。書いてると思いが走る。そういうもんかなぁとどこかで
こんなとりとめもない、ある意味オムニバスなブログを、僕自身は受け止めている。
他人にみられることを考慮して書くことも必要なのかもしれないが、それではなんだか
真面目すぎやしないか。他人のことを思いやる気持ちは尊い。大事にしたい。
でも、その思考をもったまま文字を書くとすると、おそらく全く違うことを書くのであろう。
そういうものもいずれ試しては見たいが、今のところの僕は、僕の脳が思い出したことを、
僕がそのまま指を使って打鍵しているという感じだ。だからとりとめもない。
でも、逆に言えば、生々しく人間臭いと感じるだろう。
「自分」が出るブログか、「他人」を意識するブログか。どっちも大事にしたいね。

ということで本日はここらへんでお暇しといなと思います。
ほんととりとめもないね。フラっと歩いてるスナイパーみたいだ。
まぁそれはそうと「バカの壁」、今回で三回目くらいだけど、やっぱ「身体」が大事。
現代人が機能を退化させてるところはそこ。都市化、脳化社会に住む僕らにとって、それは
仕方が無いことなのかもしれないが、意識的に自分の身体を行使して、尚且つ物事を考えて、
そしてまた身体を通じてアウトプットしていくというような、そういう循環をしたい。
つって今の僕全然運動してないんですけど。とりあえず大学始まるまでは知識貯めこむ予定。
a man said "hey guy! you should make yourself thiner."
英語で書く意味が全く見当たらないし、この英語があってる気もまったくしないまま、
今度こそ今日のブログはここでおしまい。
拝見感謝します!うれしいです。

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これが写真です。試行錯誤してしまいました。

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◎ プロフィール
HN:
Nagisa
年齢:
34
性別:
男性
誕生日:
1990/02/21
職業:
学生
趣味:
ギター演奏/音楽鑑賞/アニメ鑑賞/いい声、音を聞くこと
自己紹介:
三年間を取り戻すには。もがくしかないでしょう。
inferior complexを改善する段階。
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