日々教習所に通っていて、運転中は割と神経を使い、一日三限ある日が連続し、
結構疲れてきたというのが本音の私ですこんばんは。情け無いなんて言わないで。
某駅から校舎までの送迎バスが出ておりまして、私はそれに乗って教習所に行くのです。
そんななか、私、通ってひと月近くになりましたが、今日の帰りの送迎バス内、
初めて起こった出来事がありました。
私は後ろとか、端っことかが好きな人間なんで、最後部座席の右はじに座りました。颯爽と。
すると目の前の二席にとあるカップルが座りまして。初っ端からいちゃつく。
座ると同時に右側、つまり私の目の前に座った男は、彼女の肩を抱きよせ、髪の毛のかほりを嗅ぐ。
その時点で、私は引きこまれた。ウルトラヴァイオレットどころではない。
事実は小説より奇なりなんて過去の偉人はなんとうまい言葉を発せられたことかと思いました。
ミラ・ジョヴォヴィッチが指すら触れずに敵を倒すより、人目を気にせず彼女の髪のかほりを
検査する男のほうにある種の違和感がある。
人目も気にせずチュッチュしなさる。彼氏は終始猫なで声というか、甘ったるい声を放つ。
彼女は終始耳打ちレベルのボリュームの音声を放ちたるが如し。
そうかと思えば、発車数分前になると、「んー~のほうがいいね。」といい、正反対の駅行きのバスへ鞍替え。
あっという間のことで、私は卑しかったり、プライベートを粉砕しかねないが、その行為中、私の胸中を
徒然とツイートさせて頂くなどをしておりました。
ここで少し考えたのです。
養老孟司著、「死の壁」にて、死の「人称」について述べていらっしゃいました。
まずは、「一人称の死」について。自分自身の死であるから、みることが出来ない。
次に、「二人称の死」について。つまり英語で言うところの'you'の視点。大切な人の死です。
そして最後に「三人称の死」について。同様に'she,he'の視点。つまり全くの他人の死です。
簡単に説明するとこのような話が、作中で有りました。
私は卑屈で、好意的に解釈するなら人間的ないやらしさのようなものを持ちあわせております。
彼に習うわけではないですが、「幸福」について考えたとき、それは「人称」によって、感じ方が異なるのではないかと思ったのです。
まず「一人称の幸福」。私自身の幸福。当然のことながら、おそらく一番嬉しいであろう「幸福」でしょう。
そして「二人称の幸福」。自分自身が大事にしている方がなにか幸福になられたら、自分にもその
幸せはきっと伝播するでしょう。しかしながら、多少の妬みが存在するときも少なからずあると思います。
最後に「三人称の幸福」。これは、個人的な意見ですが、だいたいが妬みに変換される。
誰かが財を築く。誰かが大学に合格する。いわゆる'others'の幸せ話は、往々にして、こちらにまで
幸せは伝播しないものだと思う。それどころか先に上げたとおり、妬みなどが生じてしまう。
私が今日体験した「目の前でいちゃつかれること」という事象に対して、私が抱いた感情は、
嫌悪や、その二人が私との「常識」を共有出来ていなかったことに対しての不甲斐なさとかではなく、
単純に、妬み。私が持ち合わせていないものを、その男性はもっていらっしゃった。
それに対する私の妬みという単純にして強固なる感情だったっと回顧するのです。
なんて狭量なんだ。なんて矮小なんだ。なんて卑屈なんだ。時たまそう思います。
しかしながら、これも人間たる感情のような気もするのです。きっと私だけが持ち合わせる
思考回路ではないと思うのです。
他人の幸せが自分の幸せ、いうなれば、全身性感帯とか、すっごい性格のいいジャイアンとか、
なんと言い表すかはわかりませんが、そうやって他人の幸せを自分のものとして捉えられる人は偉大です。
他人を幸せにしたいとは思うけれど、それで幸せになってくれた方々は、おそらく「二人称の幸福」
にあたるので、私は幸せを手に入れられるのではないかと。
禅問答!禅問答!
やめましょう。こういうのは坊さんに任せます。
みなさんのこういう考えなんかを見てみたかったりもするのですが、
私みたいに小さいことをちまちま考える人のブログを見たことがないんですね。ただ手を出してないだけなんですが。
でもね、私は皆様が幸せであれとは思ってるよ。ウソジャナイヨー。
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