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21歳。大学に受かり、明るい明日を目指すも根本的根暗。 そいつがひねり出す言葉のそれぞれ。自分の過去ログ的な。

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 やっとこさ「フェイスブック」を読み終わりました。分厚いですねぇこの本。それでも500Pくらいしか無いのですが。
読み終わって、少し考えたことがあるので、脳内で熟成させないでのブログを書かせてください。
寝かせてないので中身は希薄かもしれませんが、お付き合いをば。

まず、この本は明確に分かれているわけではないが、主観的に前後編で分かれることができるように思う。
前編では、マーク・ザッカーバーグがどのように、誰と、まぁ起業してって話です。
後編は、ビジネスとして、会社としてのfacebookはどういうものになっていくかというおはなし。

読みやすくて、尚且つフェイスブックの全貌が大まかに分かる本でした。

前編で思ったこと:まず、ザッカーバーグがハーバード大に属していたということもあり、スタートアップ時、
同僚に非常に恵まれていたということ。同僚のポテンシャルはさすがに高い。
そして、ショーンパーカーという男の存在。この人なしには、facebookのあれほどの成長はありえていないと思う。
ショーンがでてきましたが、前編通して、巡り合わせというか、運がすごい。先日のエントリは、割と
この本に影響を受けていて、ザッカーバーグ自身、天賦の才がすごい。しかしながら、
運がいいと思えるような巡り合わせが多い。これはすごいとこにはすごい人が集まるという法則なのかとも
考える。

後編で思ったこと:ザッカーバーグはともかく揺らがない。「ダイヤモンドは砕けない」ってくらいに
ものすごい信念。頑固と言ってもいい。
そしてここで思ったのは、リヴァイアサンになるには、やはり利他的でなくてはならないということ。

facebookへの金額はトラフィックが大きくなるのに比例して増えていく。ヤフー、マイクロソフト、グーグル、
シリコンバレーのベンチャーキャピタル、数々の投資家やら、起業がfacebookの所有を欲する中、
ザッカーバーグは揺らがない。いくら金を積まれても、動かない。
そこには、ザッカーバーグの野望とも思える強い信念があったからだ。
彼は終始、「ネットの透明化、オープン化」、そしてあくまでも「ユーザの使いやすさ」を追求していた。
普通の人ならば150億ドル積まれたら揺らぐ。しかしながらザッカーバーグは動じない。
「自分が所有者でなければ、売るつもりは毛頭ない。」という態度を最後まで貫く。
ある種、独占欲が強いように思われるが、彼の頭の中にあるビジョンを実現化させるためには、
誰かに手渡すなんていうことは、少しも思わなかったのだろう。

まぁとにかくすごいっすよマーク・ザッカーバーグさんは。周りの人も優秀です。ばかみたいに優秀です。
業界のトップですよ。でも、そのなかでも物怖じしないで道無き道を進む彼はすごかった。
もともとそういう世界にいるならわかる。しかし、ちょっとしたSNSを作った人が、
未開の地へ足を踏み入れ、前後不覚の中、金を積まれても動じないというのはすごいなぁと素直に思った。



でまぁここからはfacebookそのものについてちょっと話したい。
もともと、ハーバード限定のクローズドなSNSであって、今でもあまり変わらないが、実名主義で、
当初は性的に傾いていて、まぁ、アメリカもこっちも20前後のやつは僕も含め脳内がピンクなのかなとも
思うのですが、とにかくそういう特質があった。

こっから、色々とfacebookを対立させて話を進めます。
先に行ったとおり、facebookは実名主義で、偽名や、キャラクターなどは徹底的に排除された。(後にマイスペースへ流れこむ。)
それゆえに、今でいうニュースフィードや、写真のアップロード、ひとつの意見でもアイデンティティー足りえる。
そして、今ではどうかはわからないが、facebookはいわゆる「リア友」とフレンドになるのが一般的だ。
一方日本で人気のSNS、mixiは匿名が大半を占め、今では多機能化したが、やはり依然として、
日記のようなものが多くを占める気がする。しかしながら、facebookとは違い、
「リア友」でなくても普通に「マイミク」として登録することが、できるような気がする。

この二者の違いは、文化的なものなのであろうか。
当然、アメリカでも実名なので、プライバシーの問題はあるし、実世界での被害も懸念されるが、
それでもなお、実名主義。そして人々は其れを受け入れ、facebookを享受している。
しかし日本では、相変わらず匿名主義が多く、facebookにおいても、偽名を使っている人は多い。
そしてmixiなどでは、おそらくほとんど全員と言っていいほど匿名でのアカウントを所有している。
匿名でも、リアルの友達であれば、配信される情報は何となく分かるが、
匿名で、なおかつなんの接点もない人がその情報をみたとき、割と首をかしげたり、そもそも、
関心の度合いがものすごく低かったりするとおもう。
それであるのに、匿名がここまではびこり続ける理由はなんなのだろうか。
たしかに、名前を晒さないことによって、実害を回避できるという安心感はある。

次はfacebookとTwitterの対比に移る。
今ではfacebookにニュースフィードという機能があるが、これはTwitterに驚異を感じたために
実装された機能のようだ。
Twitterにおいても、匿名主義が未だ多くを占めている気がする。
著名人はたいてい実名で登録しているが、一般的個人は日本らしい匿名だ。
僕はといえば、facebookもTwitterも実名登録している。
女性がこれをやるとたしかに身の危険があるかもしれないが、自分は、匿名でいることに
なにか違和感を感じて実名でアカウントを所持している。
どちらがいい悪いではないが、この実名と匿名の明らかな存在比率に疑問を感じざるをえないのだ。
おおまかに文化的な差異が原因なのだろうとは思うのだが。

ツイッターというのは、フォローボタン一つで、その人の考えを追えるというもので、
ロックしていない限り承認を必要としない。それゆえに、フォロー・フォロワー数はかなりの勢いで増える。
(増やしたいと思えば。)此の気軽さは、Twitterの利点であろう。
しかしながら、facebookでは、友達になるために承認を得なくてはいけない。
つまり、知り合いではない人に承認要求をしても、その人が拒否すれば、その繋がりは出来上がることはないのだ。実名ではあるが、リア友主義であるfacebookにて、僕はあまり友達を多く作れていない。
もともと、海外の人と話がしたくて始めたのだが、要求をしても返事が返ってこないことがいくつかあった。
(これは単に、僕の英語の力が足りていないからかもしれない。)

何が言いたいかというと、この実名or匿名の差は何かってことと、
友達になりたいけど、あまり広げられないけどなにこれ?っていうすごい悲しい話なんです。はい。
これは一体なんなんだろうか。ただ、実名だからこそ、迂闊に知らない人に声をかけづらいという感じはある。
それがまた、プライバシーを保護するシステムにもなっているのだろうか。
mixiの匿名性は声をかけやすくする、facebookの実名制は声をかけにくくする。
そのあとの関係性は全然わからんのですが。

このSNSの違いを誰かと話し合いたい。

そんなとこで、まとまってないですけど、今日は終わります。

追伸 でもfacebookみたいなSNSがザッカーバーグのいうようなインフラになったら、
メールとかほんとに要らなくなっちゃうよな。アメリカではメールよりfacebookで過す
時間のほうが増えてるみたいだし。情報の個別化も大事だけど、統一化のほうが利便性は増すよね。


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 なんだか余震が無限に断続的に続くんじゃないかって気がした今日の僕です。
心をふーっとするためにも、ブログを書くでげす。

心の整理とか、自分の肩の荷とかがうあぁってなったときの文の作成はやっぱり必要なんじゃないかって思うのです。それを人に見てもらえるってのがまたたのしいんじゃないかなぁなんて、チュウハイでぼやけた頭は
思うわけで。

さて、本題ですが、「思考の整理学」という本がありましてですね。
半ばまで来たあたりで、しばらく、受験期ふくんでたんで、実質一年くらいあいだあいてたんですかね。
受験終わってからちょこっとよんで、半分までのところで止まってしまった。今日まで一月くらいたちましたかね。

進まない理由はよくわかりません。文体が難しいとか、今の自分には必要無さそうとか勝手に思ってるとか、
違うものに興味が移ってるとか。

そもそも読書にハマるときは読書に時間を割くのですが、割かないときは割かない。
主にギターとかPCばっかやってる。(まぁPCはやってるのですが。)
で、しばらく間が開いて、ふと手にとってみるとサクーっと進む。
もう「プライベート・ライアン」ラスト近くの白兵戦で、敵方のナイフが腹部にじっくり喰い込むように進む。

しかも、面白いんですよ。サクっと進むってことは、面白みがあって進んでいるということ。
逆に、止まってしまう時、そのような爽快感はない。むしろ、読むのに若干の辟易をしてしまっている状態。

この期間に何の変化があるのか。ただ単に時間の経過で読めるようになったというのではなく、
その期間の読書が、僕に何らかの影響やら知識を与えて、次の読書を円滑に進めているような。
僕は一冊をかって、終わるまでじっくりという読書ではなく、欲しい本をとりあえず机の上に重ねといて、
読むのに詰まったら他の、他の、と、どんどんローテーションしていく本の読み方をしているのです。
ですから、止まって、次の本を読んで、その本がなにか影響を与えてくれてるのかなぁなんて。

「思考の整理学」についてですが、かなり面白かったです。セレンディピティという言葉もここでならいましたし、
僕の考え方にまた新しい方法を付け加えてくれるような。
今日読んだところには、人との会話の重要性が語られていましたが、僕も最近それを感じているところで。
著者は、自分の所属だとか、専門に関係の無い人との会話のほうがセレンディピティやらヒラメキを
与えると言っていましたが、これもたしかに。と思えるところで。

中学時代は市立だったんでまぁ不良から秀才なんでもござれだったのですが、
高校は私立で、まぁ自称進学校とか、なんちゃって進学校だったのですが、
それでも僕の友人はそこそこ名のあるところに行って、頑張っているみたいでした。

僕の受験が終わり、高校の連中と同窓会をやったときの経験が、著者のいっていることの裏付けになっていると思うのです。
理系ですから、まぁまとまってるといえばまとまっているけれど、専門としていることとか、
目指しているところなんていうのは全く違って。それこそ、何が面白いとか、性癖とか、ぜんぜん異なる。
でもやっぱりみんなで集まると段違いに面白い。

それは、きっと「多様性」が生むものなのだと思う。もちろん、心を通わせた青春の一員だというのもあるが、
そうではない。みんながみんな違って、それぞれの足跡がまったくちがうから、一点にまとめたとき、
カオスが生まれて、その混沌がまた心地良いのだと思う。
浪人時代の孤独が、それを反面教師的に教えてくれている。
馴れ合いというのはやっかいなものだが、友人を持つことはやはりとってもありがたく、おもしろいことだなと
再認識したのです。

その一人には「直結厨」だなんていわれて、僕もそれを非常に認めているところなのですが、
それでもやはり、異性とつきあうことは、自分の脳に新たな変化だったり、面白さを付け加えてくれると思うのです。実際そういう事を経験もしました。知的な女性と話すことはこうも面白いことかと気づけたのはいいことです。また誘ってみたいな。

話は変わり、今日読んだ本には、いわゆる、”ラノベ”とぶんるいされているものがあります。
僕は結構これが好きです。何が好きかといえば、もちろん、ストーリーの面白さが一番に来るのですが、
読みやすさという観点です。文が氾濫していて普通の小説より読みにくいラノベもありますが、
一般的に、もう少し読みやすいと思います。それが気持ちがいい。
たしかに、文学や新書と比べたら実になる知識やら考え方は少ないかもしれないけれど、
ラノベには夢があるとおもうのです。「くだらねぇ。何が夢だよ。現実見ろよ。」とおっしゃる方も
いるかも知れませんが、こういう夢こそが、将来的なヴィジョンだったり、やりたいことの原動力
になったりすると感じるのです。些細だけど面白いアイデアだとか、兵器の設定だとか、
現実離れしているかもしれませんが、それを現実にしたいなって考える人がいてもおかしくない。
そういう、夢をみる余地が残されているのがライトノベルの良さなのではないかなと思うのです。
「デュラララ9」も「新約・とある魔術の禁書目録」もどちらもとても面白い。一日で数冊読める
読みやすさで、尚且つ読後感はさっぱりしている。爽快だ。ライトノベルを毛嫌いしている人、
一度読んでみてはいかがでしょうか。

でもな、たまっている小説もあるんだ。「ノルウェイの森」も「1Q84三巻」も文学で行ったら「草枕」「芥川全集」
「老人と海」なんてのも全然読めてない。置いてあるだけ。いずれ読みたいですね。
でも、本は慌てて読むものではない。読みたい時に読んで、読めるときに読めるだけ、
潜るように読むのが一番いいんです。無理に読まされたりする読書は宿題で、全然面白くない。
自主性があって其れがモチベーションになって本に潜るのが面白いのです。

春のこの日差しを浴び、風の匂いを感じながら読書をするのはいいものですよ。


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 前回食あたりだったやつが復帰して、久々、むしろ初めて四人がまとまって集まった今夜、
僕は酒気を帯びて、PCの排熱で暑くなった部屋でひたいに汗を浮かべながらブログにとりかかるわけで。

食あたりだったやつが復活したことにより、会話の大半が恋の話。なんだかんだ若いですね。
そんななか、やっぱり思ったのが、僕は恋愛の経験があまりにも少ない。
まぁああいうものは一回が衝撃的ですからそう何度もやるもんじゃないとは思うけれども、
やはり人並みに人と付き合いたい。
やはり、僕が浪人している間、僕の同期は確実に恋をしたり、おとなになったりしているわけで。
やっぱり女の人は大人びてくるなぁというか。
僕もいい思いしたいよ!というのが率直な意見ではあります。
「そんなでもやっぱり恋したいよね僕は。」とほぼ無意識で僕はたまに気障っぽいことを言うので、
一人の方に「ううさむー」と言われてしまいました。考えて発言したいですね僕の脳みそ。

まぁそんな飲み会の話を振り返ると僕の経験値不足が浮き彫りになってげんなりするので、
題名にある通りの話をしましょう。

昨日のエントリーにも上げましたが、スティーブジョブスの演説を聞いて思ったことが多少ありました。
それは「幸運」について。about fortuneってとこです。
そもそも此の言葉自体がかなり抽象的で、うまく説明ができません。
うまく説明できないどころか、うまい例すら浮かばないものです。

しかしながら、成功者あるいは失敗者の体験談をみると、そこには紛れもなく「運がいいor悪い」としか
言いようがないことがあります。

たとえばfacebook創設者のザッカーバーグだって、ルームメイトに恵まれ、パートナーに恵まれ、
エンジェルに恵まれ。これは幸運であった事柄でしょう。

運というのは、立場、タイミング、それまで費やした力等に多少は比例するのだと思います。
がんばったけどできなかったよ!運がなかった!なんて人もいます。それはたしかにいます。

運というのはなんでしょう?何が起因して訪れるのでしょうか。
訪れるべくして訪れているのでしょうか。幸運を含めて、天賦の才というものなのでしょうか。

でも、これを肯定してしまうと、「幸福量保存の法則」なんかにいっちゃいます。これはまず無いでしょう。
しかし、この「無いでしょう」がもしかしたら間違っているのかもしれない。
幸福量は保存されているのかもしれない。それが結構危険な思想だな。なんて思ってる僕の頭の働きは、
何かに、誰かに影響されたからそう思ってるだけかもしれない。それでも、やっぱりその保存則は危険なような気がする。どうしてもする。つかやっぱないよ。自分以外全員消したら幸せになれるかって、なれないし。

つまり、幸運っていうのは、光の粒子みたいに、観察してないときは波になって漂っていて、
観察すると粒子状に目視できるんじゃないか。
幸運っていうのも、普段はどこかに漂っていて、成功例を観察したとき、ああ運がよかったなと解釈できる。

ではどうやってそれを手に入れるのか。観測できるからには抽象的ではあれ、ある意味物理的だ。
でも、手に入れる方法なんてわかんね。絶対わかんね。開発したらノーベル賞あげます。
ピューリッツァー賞でもフィールズ賞でもいいよ。あげます。僕じゃなくても誰かがくれます。

言葉の使い方が間違っていることで有名なボクシング漫画、「はじめの一歩」からの引用ですが、
『成功したものはすべからく努力しておる』なんて言葉があります。
努力という言葉は、僕はなんだか無意識的な嫌悪感を抱くのですが、
しかしながら、やはり運を手にするものは、何かしらのアクションをしているように思います。

けれども、ここで思うのが、そのアクション故に運を手にしたわけではないと思うということです。
そのアクションを含め、その「人」が第三の手か、吸引器だか知りませんが、運を吸い寄せている。
アクションがトリガーになっているわけではないんです。
その人がその人足りえる条件とか、その人が醸し出している雰囲気だとか、オーラだとか、
そういう眼に見えないものが、おそらく運(それは人であるか事象であるかはわからないが)として
舞い込んでくるのではないかと推測します。
ある種の「カリスマ」といってもいいのでしょうか。

というように、運について考えたとき、僕の頭の中にはこの考えがぐるぐるぐるぐる廻っていたりします。

自分が運を吸い寄せようとおもったら、何かを一途にやったり、同時に色々なものに手を出したりすることが
必要なんじゃないかなって思いました。

追伸 飲み会の前にツタヤによって本を買おうとしたのですが、半端じゃない汗が額から吹き出してきて、
上着を脱ぐはめになりました。レジに並んでいた女の子ふたりに「なにあいつ汗かいてんの、やばくね?
あの汗やばくね?」なんて言われてるよなぁなんて思っちゃいました。
だれでも。いいえ、ネガティブです。ご存知のとおり僕のネガティブは筋金入りですが、
運がどうこうの前にここらへんを修正したいって考えてます。難しいですね。

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どうもこんばんは。先日やっとのことで運転免許証をゲットしたボクですこんばんは。
とったのはいいのですが、実は一回目の学科で一点足らずに落第してしまいまして。
大学浪人して、運転免許も一日浪人するって笑えないですよ。
落ちた日は久々に壁を殴って穴をあけたくなるほどの怒りやら、自分の腑抜け感がひどく憎らしく感じるやら、
感情がすごかったです。そんなこんなでそれをバネにして、翌日は見事にリベンジを果たしたわけですね。

ここで気付かされたことは、僕という人間は、追い込まれないとポテンシャルを引き出せないタイプなのではないか
ということ。簡単に言うなら、夏休みの宿題は最後の3日くらいで一気にやる感じなのだと。

今年受験に合格するまで、僕は三年間浪人しました。
現役、一年目、二年目なんて、全然勉強してなかったです。
でも今年に入って、まぁ先日も申しましたとおり、周りが大人になっていくのを横目に見ているだけは
もうこりごりだと、そういうような一種の焦燥感やらが起因して、僕は頑張れたわけです。

免許の件も同じなのではないか。どこかでなめていて、「余裕」と「油断」を履き違えたまま
臨んでしまったのではないかと。
一度失敗して、自分の心がすごい混沌として、其れがモチベーションになって爆発する。

単なる二回しかない事象で、しかも互いに異なるシチュエーションなので、統計としてはものすごく稚拙な
ものではあるけれど、この二回で、今の僕のアウトラインはだいたいつかめた気がするんです。
僕自身がバネだとすると、ちょいちょいの押し込みでは伸縮しないのだと。

ですが、世の中にはこんな至言があります。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」というものです。
今の二つの例をみる限り、今の僕は明らかに愚者。そして歴史もそれほど勉強していないという
無料オプション付き。(歴史の勉強するために世界史の教科書は買ったんです。)
賢者になりたい。生まれたからには。
ですが、人間ってやはり、自分の身体や精神を通して、痛い目を見たことから学んでいくと思うんです。
自分が体験していない限り、それは自分のリアルとはまた別の世界にあると言ってもいい。

追体験なんて言葉がありますが、それは結局自分の脳内のイメージでしかなくて、
心の傷とか、脳のシワとかになるようなでっかい体験には成り得ないと考えるのです。
おそらく、追体験で学ぶ、先の言葉が定義する「賢者」というのは、
ものすごく過敏で、感情が鋭利で、仮想世界でも傷がつく、いわゆる「マトリックス」のあれです。

「マトリックス」の主人公ネオが、初めて現実世界にやってきて、格闘訓練を受ける際、
マトリックス(仮想世界)にてモーフィアスと訓練するのですが、格闘の際、ネオは仮想現実であるにもかかわらず傷つく。それは脳が現実だと認めているからだ。とモーフィアスに言われ、コツをつかみ始めるのですが。

つまりですね、歴史から学べる賢者というのは、脳がものすごい。歴史の教科書を読んで、
自分がまるでその時代に生きて、そこにいるかのように感じているのではないか。
其れがあまりにもリアリティをおびすぎているので肉体と精神が、「経験」と同じような衝撃を
感じて、賢者は賢者足りえるのだろうか。なんて思ったんです。

ですが、そんな賢者がいくら歴史を学んでも、「死」とか、そういうものを「経験」することは、ほぼ出来ないでしょう。ヨガの達人になって心拍をコントロールするくらいにならなきゃ、概念的にすら理解は出来ないはずです。
ということは、結局賢者なんていないんじゃないかって話になるんですけど。

かといって愚者にはなりたくないんですよ。賢者じゃなくてもいい。でも右大臣くらいになりたい。
あだ名が右大臣でもいい。「おい右大臣、野球しようぜ!」なんてことを言われるくらいになりたい。

結局何が言いたいのかっていうと、僕は原理主義は嫌いですが、ある意味肉体原理主義的なところはある。
自分の、脳を含む肉体というインターフェースを介して経験することで、ひとって成長できるんじゃないの?って思うんです。例外は間違いなくあるとおもうんですが、脳だけで思考を繰り返して、「できました」とか「わかりました」とかっていうのは嘘なんじゃないかとか。フリなんじゃないかとか。

大好きな人と喧嘩しましょう。しました。お互いに言い合って、「あんな事言わなければよかった。」
とか色々な後悔をする。少したって謝る。「あの時はごめんなさい。僕が悪かったです。」
仲直りする。あぁよかった僕はまだこの人と一緒にいられるんだ。あぁよかった。

ここまでの感情の起伏を「体験」して、やっとなんというか、恋の痛さとかを「知る」ことができるんじゃないかと思うんです。
これを、頭の中だけで、まぁいわゆる妄想ですよ。妄想して、心に穴が開いたようにまでなるのかっていったら、
「経験」してない限りは、リアリティなんて現れないと思うんですよね。

やっぱり、経験することは大事だなと。だからこそ、再三申しているとおり、色々なことに手を出してみたいなと。

運についての考察、なんてしたかったんですけど、また今度にしようかな。なんだか筆が進んでしまった。

追伸 長瀬愛とか堤さやかとか、やっぱよかったよね。美人じゃなかったけど、やっぱよかったよね。

あとあと、アメリカ人のあのパーティー好きはなに?そして大学生のだいたいのパーティーが
そういうふしだらなものを含んでるってどういうこと。混ぜてください。





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土曜日に卒検に受かってあとは免許の本試験を府中まで受けに行けば終わり状態の僕ですこんばんは。
といっても、本試験が割と不安で。何やりゃいいんだ。教科書の復習とか?そこら辺しかやるもの無いものね。

今日書いたのは、まぁパッションってよりは面白いネタが入って、Twitterで短く紹介するのも
悲しいなと思ったので、こちらで。そんな中余震。うわーーーー。

気をとりなおして。早速本題の方に。
正直言って、女性の方々からすると、いや、男から見てもかなりのつはもの。
はっきり言ってしまえば、気が違えているといって差し支えないかもしれません。
そういう男の、怖い話をします。

今さっきのことです。久々に家族五人で食卓を囲み、食事をしている際に、母親が
「すごい痴漢が出るらしいから気をつけなさい。」と妹に向かっていうのです。
「そのすごいってのは、数なの?それともgreatのほうのすごいなの?」と妹は返答。
話を聞いてみるに、greatの方であった。
その詳細はこのようなものだった。

ある小学生か中学生の女の子が歩いていると、スカートをたくし上げられ、それからパンツの中に手を
忍ばせ、直で臀部の肉を鷲掴みにした痴漢だというのだ。
しかし、話はこれだけではない。臀部を掴まれた少女は、必死で走って、叫んで逃げたらしい。
すると男は、なんと臀部の肉をつかんだまま並走していたというのだ。
そのまま少女は家につき、偶然にもあいていた自宅のドアを開け、母親を呼んだ。
母親が現れた。恐ろしいかなこの男、母親が現れても、臀部をつかんだままエントランスまで入ってきていたというのだ。そこで飼い犬がその男に吠えつき、男は逃げていった。
というのが一連の話だ。
僕の母やらイヌ友達は、まぁ、それは気が違えているのでしょうというおはなしで収束したみたいだ。

この話、かなり怖い。男である僕でも怖い。彼女らが言うとおり、気が違えていると考えていいかもしれない。
しかしながら、僕の脳みそは、その映像を強烈に映像化し、僕自身はといえばそれを笑いながら聞いていた。

顰蹙を買うかもしれないが、面白い話と言ったからには収拾をつけないと僕は義務を果たせない。
僕のイメージの話をしよう。

もちろん、臀部を直につかむまでの描写は同じだ。だが、そこから僕は色々なイメージをした。
まず、臀部のつかみ方だ。下手なのか上手なのかによって、並走の仕方は大きく異なる。
(1)下手の場合
この場合、いわゆるみなさんがイメージする「電車内での痴漢」のような触りかただ。
スカートを捲り上げてから、直につかむまでのタイムラグは間違い無くある。なぜならまくり上げたスカートは
重力によって元の位置に戻ろうとするからである。その速度よりも素早く手が次のステップに進む必要がある。
また、この時、並走の仕方は、リレーで、次の走者にバトンを渡すような格好になるであろう。
走りやすさで言えば、次に述べる(2)よりは楽である。

(2)上手の場合
この場合、簡単にイメージしようとすると、これまた直截的な物言いになってしまうが、
真正面から胸をつかむ感じと言えば理解しやすいだろう。
だが、当然のことながら、臀部というのは胸部よりもはるか下部に位置し、たったままの状態では
つかむことは出来ない。しかしながら、上手でつかむ場合のメリットもある。
それは(1)の場合と異なり、スカートにかかる重力を考慮して次のステップに進まなくて済むということだ。
つまり、スカートを捲り上げる時点で、自らの手は上向きになっているので、その億劫を省けるということだ。
そして、ここからが想像した後に面白いと思った点だ。
もしこの条件で並走するとなると、(1)のような走りやすさはない。
そこで、どう走るか僕は考えた。答えはこうだ。その男はコサックダンス状態で走ったに違いない。
(1)の状態では、先程も述べたとおり、普通に走ることができる。
しかしながら、今回の状態では、自分の体を起こしたまま、手を上手にして、自分の下腹部にあたる
部分をつかみながら走るということは非常に困難である。可能であるとすれば、
手首の柔軟性が非常に優れているとか、そういうイレギュラーな条件が含まれてくる。
以下の考察から、犯人である男は、コサックダンス状態で並走したと考えるのが一番理にかなっていると
考えたのである。

ついでにもう一つの考察も済ませたい。
それは、「母親の存在に気づいているのに臀部を握り続け、飼い犬に吠えられて逃走した」ということについてである。
僕の仮説はこうだ。その犯人はものすごく集中していた。(1),(2)どちらの手段にしろ、
かなりのマルチタスクを強いられるため、神経を非常に使うであろう。
それに加えて、彼の執念はものすごいものがあったのだ。
執念と集中力で、臀部を掴み続け、張り詰めた糸のような集中力は、母親の存在すら眼前から消してしまうほどのものであった。しかしながら、犬に吠えられたことにより、その集中力は切れ、
犯人は自分のしたことを瞬時に理解し、逃走したのであろう。
と僕は考えた。


とまぁ、かるーいジョークみたいなこといってますけど、実際怖いよね。
こういう考えでもしないと、犯人の尋常じゃない執念がスゲェ怖いものに感じられると思うんですよ。
ケツ掴み続けてずっと一緒に走って、そのまま玄関まで入ってきちゃうって、怖すぎんだろ。
僕自身も欲求不満になるし、やっぱり彼女もほしいし、いろいろしたいと思います。
けれども、そういう人にはどうやってもなれない。
彼の脳はいわゆる「切れる若者」のように、前頭葉というブレーキが効かなかったのか。
それとも扁桃体というアクセルを踏みすぎたのか。
(前者は衝動的殺人者、後者は連続殺人者のメカニズム)
そういうふうにはなれないよなぁ。

ということでした。女性の方々には結構不快な思いだったり、怖い思いだったりさせたエントリかもしれませんが、反面教師ということで、自分の身は大切にしてください。

本試験不安だ・・・頑張ろう。

速攻の追記:面白い話じゃねぇ。これ普通に怖い話だ。 つか、俺の思想がより恐怖を加速させてるかもしれない。違うんです。犯人は俺じゃないんです。 素質的な意味で自分が怖くなった。これが他人の脳を覗くことの恐怖ですみなさん。これが現実。 何晒してんだぼかぁ・・・それでもボクはやってない

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◎ プロフィール
HN:
Nagisa
年齢:
35
性別:
男性
誕生日:
1990/02/21
職業:
学生
趣味:
ギター演奏/音楽鑑賞/アニメ鑑賞/いい声、音を聞くこと
自己紹介:
三年間を取り戻すには。もがくしかないでしょう。
inferior complexを改善する段階。
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